山月記 of the Contemporary

大事なのは、他人の頭で考えられた大きなことより、自分の頭で考えた小さなことだ

恋の罪

ああ、胸がえぐられる。彼(園子音)の映画を見ると、ほんと人生を根本から見直ささせられる。

 

この映画の元ネタとなったのは、1997年に起きた本当の事件。被害者の女性は慶応大出身で大手会社に努めていたエリート女性。昼は大幹部として働き、夜は売春女として不特定多数の人を交わっていた。『恋の罪』では、彼女は大学文学部の助教授として登場している。彼女と、その他に2人の女性を織り込み、セックス、狂気、言葉などをテーマにした作品となっている。

 

あとは、別々に気になった点、考えた点を記述する。

 

世間に疎く、ましてやレッドストリートに関することなんて何もわからない僕だが、そこに通う女性たちの精神性について、少しだけでも理解が深まった気がする。主人公のいずみは、イプソンの人形の家のような(といってもこの作品をまだ読んでいないのだが)、ほんとお人形さんみたいに良い子にしている美しい妻で、亭主関白である夫に真摯に仕えている。それが、自分の人生に空虚をもたらし、その隙をAVスポンサーに勧誘されることになった。「あなた美しいわよ。もっと自分に自信持ちなさいよ。」と。確かに、そういうふうに誰かに認められることによって、人は「自分」というものを感じられる。存在の空虚感が埋められていく感じがする。「自分とは何か」ーそういった根本問題をかかえ、追い求めていくことを、この作品で園監督はカフカの『城』を何回も引用して表現していた(気がする)。いつまでたっても、その「自分」(城)というものには辿りつけないのだ。もがく。辿りつこうと思って。なんとか、わずかでも、たった一瞬でも、「自分」ー「生きているのだ」ということを実感していたい。それを、セックスの快感が提供してくれるのだと思う。空虚を埋めるためのセックス。とりあえず、セックス。代価としてお金を貰えれば、それもまた空虚をわずかばかりに埋めてくれよう。しかし、一時的には満たされたように感じていても、根本的には解決されない。そしてどんどん泥沼にはまっていく。

美津子の場合は、生まれ育った環境に大きく影響があったようだ。母に認められない、ということが、美津子の根本的な自己存在感をうまく育むことができずに育った理由かと思われる。認められるための、勉強とエリートコース。そんな人生、空虚でしかない。それを満たすための夜の売春業。それはまた母への反抗を伴っていたはずだ。

もう一人の主人公の刑事役の女性、和子も、同じように空虚を身にまとっている女性だ。一見、平和そうに見える家庭で、彼女自身タフそうな女性だが、裏ではどうしようもない男と不倫関係にある。この事件に関わることは、彼女も自分自身のあり方についても向き合うこととなっている。物語の途中で彼女の同僚が口にする「ゴミ収集車を追ってとなり町まで走り、失踪する女性」を最後のエピローグのとこで自分自身が再現することにもなった。電話がなり、「今、どこにいるんだ?」と夫、もしくは不倫男性から聞かれ、「わからない」という。しかし、彼女は例の事件が起きた廃墟の目の前にたっているのだ。それは、あなたにとっての事件でもあるのだと押し付けられたように。

それにしても、売春に通う男どもも情けなく写っていた。多分全ての売春通いの男性に当てはまるわけではないのだが、彼らは女性蔑視の思想を持っているし、その行為自体に他人を蔑視する要素が含まれている。園監督はこの作品を、「女性に対する愛と尊敬を描いた映画」といっている。売春婦という身なりに落ちぶれても、必死に生きている。生にしがみついて生きている。空虚にまとわれても、横暴な男性にめちゃくちゃにされても、力強く生きている。そんな女性たちの生き様を写していた。ああ、やはり男性が情けない。