山月記 of the Contemporary

大事なのは、他人の頭で考えられた大きなことより、自分の頭で考えた小さなことだ

希望の国 を観て

映画において、いくら現実的なものを描いても、そんなのは僕達の日常で見飽きている。映画でしかできない、映像と音声を組み合わせてできる特殊効果を生かして、日常の中の真実をよりリアルに炙り出すこと。そんなのが、園子温の映画という芸術作品への心意気だと思っている。

この希望の国という作品は、園子温による、福島原発を元にした、長島という架空の土地での原発事故を背景に扱っている。これまでの園子温作とは違う印象を受けた。シュールリアリズムというか、非現実的(それがまた、心の現実かもしれないという、超現実さ)の要素がいくつも組み入れられていたと思う。例えば、「杭を打たれる」という表現。部屋の真ん中に杭が打たれ、ちゃぶ台の上にも打たれ、父と息子の間に実際に杭が打たれるのを見るのは、なんとも言えないリアル感があった。他にも例えば、あの若いカップルが子供二人の幻と出くわす場面などがある。。僕達の日常に、こういったことはおそらくありえない。しかし、映画という媒体を使うことにより、それが可能になる。僕たちは、物事の本質により一歩、深く近づいていくことができる。

この映画を観ての個人的な感想を、あともう何点か。

ひとつは、「自分の身は自分で守れ」ということ。「お前の人生を、誰かに預けるな。」具体的にいえば、政治家や国のリーダーに自分の命に関わる物事を任せきるな、ということ。任せることは仕方ない。我らの代表として、代わりにうんと考えてもらう。そうでなければ、国民一人一人が政治家のようにならなければならなくなる。誰も農地を耕したり、商品を製造したり、運搬したりなどの「生産活動」を営むことができなくなる。ちなみに、この役割分担のおかげで、現代文明は発展を遂げてきた。しかし、この極端な依存性は、常に危険を伴う。自分の頭をオフにして、誰かリーダーが言うことに従う、他の大多数の人がしていることに従う、そんなことをしていたら、福島の原発事故の際のように、自分の身を自分で守ることができなくなる。ニュースも嘘をつくかもしれない。医者だって、嘘をいう。大衆だって、全員で間違っているかもしれない。現代では、青年の政治的無関心が大きな問題になっている。この映画を観て、影響を大きく受ける人もいるのではないかと思う。とにかく、自立だ。自立心を、日本人はもっと持たなければならない。自分の人生に、自分が責任をもつこと。誰のせいにもしないこと。仕方ないと、諦めないこと。

もうひとつは、地面に根をはること。小野泰彦は強制退去地区のぎりぎり外に家を持つ。彼は誰がどんなに説得しても、どこか違うところに写り住むことを拒否する。彼を説得しに何度も足を運ぶ政府の役人の二人もほとほと手を焼き、最後にはあきらめてしまう。その二人の対極的な姿勢も面白かった。中年世代の日本人と青年世代の日本人の特徴と本音を少し極端にあらわしている。それはともかく、何故、あれほどまで泰彦は自宅に残ることにこだわるのか。それは、彼の人生があまりにも深くその場所に根を下ろしているからだ。少年・青年期の思い出、妻の智恵子との思い出、息子との思い出、全てがそこにある。記憶、思い出、それらは人生の全てだ。それらを失うことは、命を失うことにも等しい。だから、泰彦にはそこを離れた人生はないと感じられるのだ。この感覚は、今ではお年寄りの方々以外には珍しいものかもしれない。少なくとも、20代前半の僕にはそうだ。村上春樹もそうだ(と思う)。 戦後の日本で高度成長期に入った時、日本列島改造計画というものが実地され、古い建物などが新しく建てなおさたばかりでなく、山が消え団地になり、川が消え地下にもぐり、海が消え陸地になるなど、自然の地形も作りなおされた。地方から都市への人口の流動化。都市での人々の人間関係の希薄さ。これらの社会状況の中で、多くの人々は根無し草になってしまった。アイデンティティの喪失。新しいアイデンティティを築き上げることは難しく、悩める人々は多い。この映画では、小野洋一は実家への執着(アイデンティティの根)を見せるが、最後には妻のいずみとどこか遠い場所へ移ることを決意する。そこで、新しい世界を作るのだ、と。新しい世界を立ち上げること。何もない場所で、自分の存在意義と新しい自分の物語を立ち上げること。現代の悩める根無し草である僕達に、園子温はそういったメッセージを送ってくれているような気がする。「愛があるから大丈夫よ。」「愛があるから、なんとかなるわ。」「愛」、それが新しい世界の立ち上げに必要なものだという、園子温のrecurringテーマだ。