山月記 of the Contemporary

大事なのは、他人の頭で考えられた大きなことより、自分の頭で考えた小さなことだ

女王の教室を観て

現代の教育では、先生は威厳を失っている。尊敬され、従うべき存在から、生徒に親しまれ、モンスターペアレントに追従する肩身の狭い存在に変わってきている。教育における暴力の禁止、厳しい指導の禁止などが広まり、生温い平和主義と平等主義の指導が蔓延る。その結果、ぶつかり乗り越えていくべき壁を失った若者たちの困惑は深まるばかりだ。その状況に一矢を報いる学園ドラマ。

 

この鬼教師、実は良い先生なのではないか、最後に「やっぱり!」と思わせる展開を期待して観てきた。だが、なんというクールな人なんだろう。決して、浅はかな「良い先生」と呼ばれることを良しとしない、その強情までのストイックさに、最後まで突き通したその姿に感動した。あくまでドラマの話なのだが、教育について考えるきっかけになるであろう。特に最終話とその前の1話には、教育についての大事なポイントが詰め込まれている。繰り返して観たいものだ。

先祖代々の土地と固定資産税

日経新聞の面白い記事を読んだ。

東京の街中でたまに見かける奥ゆかしい広大な土地を持つ豪邸。さぞ、お金持ちの人が住んでいるんだろうなと思っていた。だが、実情はそんなに甘く羨ましいものではないらしい。

そういった豪邸に住むのは、江戸時代に遡る地主や武家の子孫。代々伝わる土地を守ろうとするが、明治以降の相続税や固定資産税に絞られ、どんどん痩せ細っているのが現状だ。家を支えるために、医者を目指す子供もいるという。いろんな人生があるのだなと感じた。

恋の罪

ああ、胸がえぐられる。彼(園子音)の映画を見ると、ほんと人生を根本から見直ささせられる。

 

この映画の元ネタとなったのは、1997年に起きた本当の事件。被害者の女性は慶応大出身で大手会社に努めていたエリート女性。昼は大幹部として働き、夜は売春女として不特定多数の人を交わっていた。『恋の罪』では、彼女は大学文学部の助教授として登場している。彼女と、その他に2人の女性を織り込み、セックス、狂気、言葉などをテーマにした作品となっている。

 

あとは、別々に気になった点、考えた点を記述する。

 

世間に疎く、ましてやレッドストリートに関することなんて何もわからない僕だが、そこに通う女性たちの精神性について、少しだけでも理解が深まった気がする。主人公のいずみは、イプソンの人形の家のような(といってもこの作品をまだ読んでいないのだが)、ほんとお人形さんみたいに良い子にしている美しい妻で、亭主関白である夫に真摯に仕えている。それが、自分の人生に空虚をもたらし、その隙をAVスポンサーに勧誘されることになった。「あなた美しいわよ。もっと自分に自信持ちなさいよ。」と。確かに、そういうふうに誰かに認められることによって、人は「自分」というものを感じられる。存在の空虚感が埋められていく感じがする。「自分とは何か」ーそういった根本問題をかかえ、追い求めていくことを、この作品で園監督はカフカの『城』を何回も引用して表現していた(気がする)。いつまでたっても、その「自分」(城)というものには辿りつけないのだ。もがく。辿りつこうと思って。なんとか、わずかでも、たった一瞬でも、「自分」ー「生きているのだ」ということを実感していたい。それを、セックスの快感が提供してくれるのだと思う。空虚を埋めるためのセックス。とりあえず、セックス。代価としてお金を貰えれば、それもまた空虚をわずかばかりに埋めてくれよう。しかし、一時的には満たされたように感じていても、根本的には解決されない。そしてどんどん泥沼にはまっていく。

美津子の場合は、生まれ育った環境に大きく影響があったようだ。母に認められない、ということが、美津子の根本的な自己存在感をうまく育むことができずに育った理由かと思われる。認められるための、勉強とエリートコース。そんな人生、空虚でしかない。それを満たすための夜の売春業。それはまた母への反抗を伴っていたはずだ。

もう一人の主人公の刑事役の女性、和子も、同じように空虚を身にまとっている女性だ。一見、平和そうに見える家庭で、彼女自身タフそうな女性だが、裏ではどうしようもない男と不倫関係にある。この事件に関わることは、彼女も自分自身のあり方についても向き合うこととなっている。物語の途中で彼女の同僚が口にする「ゴミ収集車を追ってとなり町まで走り、失踪する女性」を最後のエピローグのとこで自分自身が再現することにもなった。電話がなり、「今、どこにいるんだ?」と夫、もしくは不倫男性から聞かれ、「わからない」という。しかし、彼女は例の事件が起きた廃墟の目の前にたっているのだ。それは、あなたにとっての事件でもあるのだと押し付けられたように。

それにしても、売春に通う男どもも情けなく写っていた。多分全ての売春通いの男性に当てはまるわけではないのだが、彼らは女性蔑視の思想を持っているし、その行為自体に他人を蔑視する要素が含まれている。園監督はこの作品を、「女性に対する愛と尊敬を描いた映画」といっている。売春婦という身なりに落ちぶれても、必死に生きている。生にしがみついて生きている。空虚にまとわれても、横暴な男性にめちゃくちゃにされても、力強く生きている。そんな女性たちの生き様を写していた。ああ、やはり男性が情けない。

 

「かわいさ」と「甘え」

甘えの分析を理解していくうちに、一つ自分が連想して思いついたことがある。日本では、「かわいい」女子がもてはやされ、韓国では「セクシー」さが求められる。この社会差はどこにあるのか。「かわいい」とは、「可愛い」である。愛すべき対象ということで、助けを必要とするVULNERBLEで幼児のような者を指す。「甘え」の文化からすれば、日本人は他人への依存度が非常に高く、甘え、甘えられたい。「かわいい」を好むのは、こちらが対象に愛を与えることができるからで、つまり、甘やかしたいからである。甘やかすことをさせてもらっていることによって、こちらは自分の存在を他人に受け入れてもらえている、自分は必要なんだと思えるようになる。

自分があまりそういうメデイアを見ないから、実際にはよくわからない。それでも韓国の「性」へのアプローチの仕方は、日本人の基質とは異なるものがあると思う。整形手術が公然と行われることーつまり”自然”を人間の手で作り変えることに対することへの抵抗の少なさも、かなり”進歩的”な考えを持っている韓国の風潮を反映しているのかもしれない。

自分が保守的な日本人なだけなのかもしれない。性は家庭の中に閉じ込めているべき、みたいな。とても儒教的だな。あれ、韓国の儒教はどこへ行ったのやら。この違いは、いつ・どこから生じ始めたのか。面白い研究テーマだと思う。

希望の国 を観て

映画において、いくら現実的なものを描いても、そんなのは僕達の日常で見飽きている。映画でしかできない、映像と音声を組み合わせてできる特殊効果を生かして、日常の中の真実をよりリアルに炙り出すこと。そんなのが、園子温の映画という芸術作品への心意気だと思っている。

この希望の国という作品は、園子温による、福島原発を元にした、長島という架空の土地での原発事故を背景に扱っている。これまでの園子温作とは違う印象を受けた。シュールリアリズムというか、非現実的(それがまた、心の現実かもしれないという、超現実さ)の要素がいくつも組み入れられていたと思う。例えば、「杭を打たれる」という表現。部屋の真ん中に杭が打たれ、ちゃぶ台の上にも打たれ、父と息子の間に実際に杭が打たれるのを見るのは、なんとも言えないリアル感があった。他にも例えば、あの若いカップルが子供二人の幻と出くわす場面などがある。。僕達の日常に、こういったことはおそらくありえない。しかし、映画という媒体を使うことにより、それが可能になる。僕たちは、物事の本質により一歩、深く近づいていくことができる。

この映画を観ての個人的な感想を、あともう何点か。

ひとつは、「自分の身は自分で守れ」ということ。「お前の人生を、誰かに預けるな。」具体的にいえば、政治家や国のリーダーに自分の命に関わる物事を任せきるな、ということ。任せることは仕方ない。我らの代表として、代わりにうんと考えてもらう。そうでなければ、国民一人一人が政治家のようにならなければならなくなる。誰も農地を耕したり、商品を製造したり、運搬したりなどの「生産活動」を営むことができなくなる。ちなみに、この役割分担のおかげで、現代文明は発展を遂げてきた。しかし、この極端な依存性は、常に危険を伴う。自分の頭をオフにして、誰かリーダーが言うことに従う、他の大多数の人がしていることに従う、そんなことをしていたら、福島の原発事故の際のように、自分の身を自分で守ることができなくなる。ニュースも嘘をつくかもしれない。医者だって、嘘をいう。大衆だって、全員で間違っているかもしれない。現代では、青年の政治的無関心が大きな問題になっている。この映画を観て、影響を大きく受ける人もいるのではないかと思う。とにかく、自立だ。自立心を、日本人はもっと持たなければならない。自分の人生に、自分が責任をもつこと。誰のせいにもしないこと。仕方ないと、諦めないこと。

もうひとつは、地面に根をはること。小野泰彦は強制退去地区のぎりぎり外に家を持つ。彼は誰がどんなに説得しても、どこか違うところに写り住むことを拒否する。彼を説得しに何度も足を運ぶ政府の役人の二人もほとほと手を焼き、最後にはあきらめてしまう。その二人の対極的な姿勢も面白かった。中年世代の日本人と青年世代の日本人の特徴と本音を少し極端にあらわしている。それはともかく、何故、あれほどまで泰彦は自宅に残ることにこだわるのか。それは、彼の人生があまりにも深くその場所に根を下ろしているからだ。少年・青年期の思い出、妻の智恵子との思い出、息子との思い出、全てがそこにある。記憶、思い出、それらは人生の全てだ。それらを失うことは、命を失うことにも等しい。だから、泰彦にはそこを離れた人生はないと感じられるのだ。この感覚は、今ではお年寄りの方々以外には珍しいものかもしれない。少なくとも、20代前半の僕にはそうだ。村上春樹もそうだ(と思う)。 戦後の日本で高度成長期に入った時、日本列島改造計画というものが実地され、古い建物などが新しく建てなおさたばかりでなく、山が消え団地になり、川が消え地下にもぐり、海が消え陸地になるなど、自然の地形も作りなおされた。地方から都市への人口の流動化。都市での人々の人間関係の希薄さ。これらの社会状況の中で、多くの人々は根無し草になってしまった。アイデンティティの喪失。新しいアイデンティティを築き上げることは難しく、悩める人々は多い。この映画では、小野洋一は実家への執着(アイデンティティの根)を見せるが、最後には妻のいずみとどこか遠い場所へ移ることを決意する。そこで、新しい世界を作るのだ、と。新しい世界を立ち上げること。何もない場所で、自分の存在意義と新しい自分の物語を立ち上げること。現代の悩める根無し草である僕達に、園子温はそういったメッセージを送ってくれているような気がする。「愛があるから大丈夫よ。」「愛があるから、なんとかなるわ。」「愛」、それが新しい世界の立ち上げに必要なものだという、園子温のrecurringテーマだ。

 

人の価値って

人の価値ってなんだろう。価値を決めることができそうでもあるし、できなさそうでもある。

 

僕は思うに、「人」の価値を決めるということは、「人」をかけがえのないものとして見ない、只の「物質」や「数」としての視点に立つということだと思う。つまり、「人」の物質化である。高度な概念という産物を持ち合わせるゆえに人間は人間を物質とみなして見ることが多くなった。別に、それが悪いと言っているわけではない。常に人を「人」という全体的なかけがえのない存在として見てしまえば、その光は眩しすぎて何もすることができなくなってしまう。社会で働くには、その「人」の全体の中から、その時その場に必要な一部分に焦点をあてて取り上げ、それに対して他との相対関係のなかで価値を決める。一昔前だと、その人の能力や人柄より血筋・家柄といったものが重要視された。人の価値というのは、そういうものなのだ。人に価値をつけることはできる。しかし、その価値とはその人のある一部に焦点をあてたもの、もしくはその人に対してのあるひとつの見方によって生み出された、相対的な価値にすぎない。だから、人の価値とは、本当は付けることができないものとも言える。

 

人の価値。僕たちは仮に、「絶対的に尊い」という価値をつけることができる。確証などどこにもない、人間への信仰のようなものだ。国連憲章などでうたわれる人権のように、今世界でトレンディな思想だ。しかし、これも「真理」か?「絶対なのか?」と言われれば、もろくも砂上の楼閣のように崩れ去ってしまう。論理的に破綻する。”無理”なのだ。

 

人の営みをありのままで見つめてみる。違う。この世界の営みのありのままを見つめてみる。そこには、いろいろな生命が生きている。かれらの命と、人間の命と、どちらが大切なのか。人間からしたら、自分たちの生命が大事だし、彼らからしたら、彼ら自身が大事である。しかし、全ての物事はうつりゆく。人も死ぬし、他の生命も息絶える。どちらかが先に犠牲になって片方の寿命を伸ばすこともあるし、その反対も起きる。この世界は、残酷なほど、公平だ。確かなものは、今生きていることと、自分が生きたいと思っていることと、それが他の生命にとっても同じだということだけのようだ。無常感に生きるというのは、そういうことかなあ。

 

話はそれにそれて、それでもいいかなと思ったが、自分の為に、結論を書いて終わる。人の価値については、2つの見方があるようだ。ひとつは、絶対的にかけがえのない尊い存在としてみること(無常感と紙一重)。もうひとつは人間を物質化し、相対的で数量にして計ろうとすること。僕は、どちらも現に存在するし、大事なのではないかと思う。相対的な評価に偏ってしまえば、人間の尊厳を失ってしまうし、その尊厳を強調するのに偏ってしまえば、何もできなくなる。言ってみれば、前者の考え方は母なる大地のように揺るぎない安心を僕等に与えてくれるもので、後者の考え方はその大地の上に自分らしい個別な生命の発展を促してくれる、厳しき父のようなものである。

 

 

 

とある友人に当てたメッセージ。消しさってしまうのも勿体無い内容だったので、プライベートなところカットして掲載。

何も考えずに過ごす時はあって全然良いと思う。『ねじまき鳥クロニクル』のあるキャラクターが言ってるよ、「自分のことについて何も考えない時が、一番自分に近づいてる気がする」って。もちろん、時にはゆっくり思考したり、自分の中に深くもぐっていくことも大事。だけど、深みに入るって(春樹さんも言っているが)危険でもあるんだよね。(おそらく、その無意識の領域には全人類の歴史上のすべての悪の根源的なものもある)だから、彼は毎日からだを鍛えて、健康的な生活をしてるしね。あそこでの日々は、今もう一度振り返ってみても、あまりに「思考」に偏りすぎていて絶対に不健康だと思った。いやはや、やっと自由だね。

「社会に飲まれる、大人になる」ってところで、俺も最近考えてたことにリンクするんだけど、俺は自分の個性を削られていくことかなって思う。社会にあふれる画一的なルール、マナー、礼儀、etcに縛られて、本当の自分らしく振舞えなくなってしまい、それが慣性化して、自分らしささえ失ってしまうこと。言い換えれば、社会に手懐けられた犬と化すこと。個人と社会は常に対立関係にあるけど、大人になるにつれて子供らしさ(自分らしく、好きなことをすること)を失っていくんだよね。社会学では、人間は「社会」(自らが生み出したのにも関わらず)に支配されているって主張する。道徳観、倫理観、それらもすべて作り物だ。それにも関わらず、いつの間にか、それが「あたり前の事実・真実」となって個人に襲いかかってくる。子供たちは、学校を卒業して社会にでるとその圧力をもろに受けることになる。 俺は日本に帰ってきてから、日本社会をそこにいながら外から観察(デタッチメントを用いて)してきたんだけど、結構面白いよ。まだまだ分からんこと、たくさんあるけどね、でも本読んで他の人の意見にひれ伏すんじゃなくて、自分の目で見て、自分の頭で考えて論をつくりあげていくのは本当に楽しいよ。勉強って楽しい。

話を一段落戻すけど、大人になる時に重要なのは(俺がいままでものすごく、決定的に欠けていた)自信を持つことだと思った。たとえば、著名な学者がこういっているけど、「ほんまかいな?嘘いうてるんちゃうやろな?」って、自分の考えを尊重すること。Critical thinking の基礎が、自信なんだって最近気づいたよ。もちろん、社会で生きていく上で、「すべき」ものとの折り合いは必要。でも、折り合ってやってるんだっていう強気の姿勢が大事。たとえば、自分の主張との小競り合いで、「社会」から追放されそうな状況に陥っても、「実際、どっかで楽に幸せに生きていけるし。」って、余裕をもって圧力に対抗すること、押しつぶされないこと。それは「生きていける」っていう自信だよね。自分の命に対する尊重と尊敬の念。HUMAN RIGHTS!!! 実際、そういう風に、自分に自信をもって、自分らしくありのままで、生き生きと楽しく暮らしてる人の周りには、人があつまる。幸せな雰囲気をもらいに。それがまた自分の自信を増す結果にもなって、どんどん自分の生き方への自信が強くなっていく。 さて、その自信、もしくはequal human rightを自分が持てるようにするには、どうすれば良いか。紆余曲折した道のりを歩んできて、今その考えが実践と確証をへて固まりつつある。まあ、端的に言えば、それは人間ひとりひとりが、equalで素晴らしい、って「信じる」ってことだよね。誰がhuman rightなんかあるって言い出したの?人間だよね。でもそれって他の動物や植物、無機物質を無視した、完全に人間中心の、egoisticな主張じゃないのか。。いやはや、じゃあこの世にabsolute truthなんてあるのか?ないような気がするし。。。それに、実存主義の観点から見ても、真実は所詮俺らが真実だと思い込んでるものだし。 じゃあ、信じればええやん!ってことになったんだ。だいぶはしょったけどw  それで、俺は宗教とか何もなしで、無機質な論理だけで進もうとしてみた。でも、やっぱりちょっときつくてね。この体中にnegative thinkingと自信のなさっていう奴隷根性が染み込んでいて、なかなか論理だけじゃそれを振り切れなかった。やっぱり、人間は弱いねって思ったよ。周恩来の妻の鄧頴超さんは、子供の頃から母がすごくて、人間の尊厳とかそういうのを小さいころから教えこまれて、自然なもの、常識として心の芯にそれがなっていたんだと思う。俺は荒れた下町でもまれながら育って、surviveするのに必死で、周りの人を蹴落として生きてきたようなものだから、こんな人間が変わるのはやっぱり大変なのかな。

残りの文章は、私的すぎたので割愛。